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銀の鈴社は、〈花や動物、子供たちがすくすく育つこと〉を願って活動しています

思い出のシーン

編集のデスク 
今は太田征宏作『少年の日ー焼け跡の銀座からー』の原稿があります。
下町の東京大空襲前後。 わんぱく盛りの少年たちの 日常がいきいきと綴られて 思わず同時期を過ごした幼児期のことが 記憶の奥底からむくむくと出てきているようです。
今は築地市場あたりの原っぱ 銀座歌舞伎座周辺の街筋 作者の通った京橋小学校・・・
この近くに つい4年前の銀の鈴社はありました。よくランチに足を運んだイタリアレストラン「イルビアンコ」の真ん前が 作者の家だったと。
その上作者は 浅草の白鴎高校の同窓と知り 打ち合わせがついつい思い出話に脱線するありさま。
夜は夜で 昭和の名歌番組につられ 口づさみながらぼんやり聞いているうちに タイムトンネルを急速度ですべる 「岸壁の母」のメロディーに こんな心境今の人はわからないでしょうね。と 50代の娘に話しかける。
思い出したけど 戦死の通知を受けていたのにある日突然おじいちゃんがヨレヨレの軍服姿で疎開先にたどりついたときの ふしぎなシーン 今でもはっきり覚えてる。
喜ぶはずのおばあちゃんが 青ざめた顔をして 「みんなこっちにきて 静かにするのよ お父さんが帰ったこと みなに言いふらさないのよ。おとなりのお兄ちゃんも お向かいのお父さんも・・・みんなみんな帰ってないのよ。自分たちだけ喜んでは申し訳ないでしょ。わかったね。」
たくましい母の采配に みなうなづいて薄暗い部屋で肩寄せあったことでした。
そして 父は ほどなくして私塾をはじめ 女学生たちが農作物をいっぱい抱えて我が家に通うようになりました。
それまでの日々 物々交換の母の着物も底をつき 私たちの宝物が食料品に換えられていきました。
大泣きしたことが ふっと湧き上がり 問わず語りに話したのです。
「お母さん そのこと忘れないうちに ブログに書いといて」
そうそう 私は自由が丘となりの緑が丘国民学校1年生。
疎開前に東京で 入学祝いにと西尾実先生の奥様から頂いたセルロイドの 雲をながしたような美しい筆箱と新しいトンボ鉛筆 新しい消しゴムのセット だいじなだいじな宝物でした。
学校から帰って それがたった1本のタクワンに換えられていたことを知り 人生でいちばん激しく泣きわめいた思い出なのです。
忘れていたはずの忌まわしいあれこれ しっかり映像つきで人間コンピューターにインプットされているのでした。

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