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銀の鈴社は、〈花や動物、子供たちがすくすく育つこと〉を願って活動しています

語り継ぐ戦争体験  3  阿見みどり

高校野球の合間に 徹子の部屋をのぞく  今日から夏休み
徹子さんの談話に戦争体験のひとこと 自由が丘の駅にいき「元気にいってらっしゃい」と旗をふって見送るとご褒美にスルメをもらった・・・戦争のことなどよくわからぬままとはいえ、心に痛みとして残っていると
幼い心に人間としての異常なあれこれのシーンが、人それぞれの深奥に息づいているのだと共感しました。同じ自由が丘の駅での記憶とは。
兵隊さんを駅で見送る 私はまぎれもない自分の父の番でした。
目蒲線だったのでしょうか 記憶では大井駅でもう帰りなさいと父に言われただならぬ緊迫した雰囲気で、母を振り返りました。
気丈にも母は表情を変えずに赤ちゃんだった妹をおんぶしていて、両手に弟と私、私はもう片方を兄と手をつなぎ、行ってらっしゃいと。
命をかけてのさよならとは、私には理解の域をこえていました。
父はその風景を瞼に生きて帰ったといっておりました。
終戦後、戦死の通知がきて疎開先での母のたくましさは固まっていった気がします。
ある日、よれよれの兵隊さんが前触れもなく現れました。父でした。
母は口に指をあてて父を奥に追いやりながら「まわりでは戦死した人が多いのよ。声に出して喜んではいけません」。とてもとても怖い顔でした。
戦争体験 2
8月6日原爆の日
朝の黙祷のあとで 意を決して自分の戦争時の体験を書きとどめようと、このブログに約束ごととして入力しました。
1から10ぐらいまで項目を書いて・・・
うっかり消してしまったのか「語り継ぐ戦争体験 1」が行方不明
これは その続き
   1 自由が丘での防空壕造り
記憶がおぼろげなのでウエブ検索
東京大空襲自由が丘  キーワードがあたりわかりました
「昭和10年 赤坂の豊川稲荷大社から分神を招致し、商店街活性化の一つとして 1、10、21 月3回豊川稲荷の縁日とされ 昼間から煙火を上げ夕方から駅前銀座会と銀座会の通りに露店が80軒以上並んで賑やかでした。大東亜戦争に突入し街も戦時色となり 縁日も中止となりました。
昭和20年3月10日の東京大空襲で駅前を中心に商店街の半分以上が消失・・・目黒区商店会会報22より 」
23~55万の死者を出したこの日です。
緑ヶ丘国民学校1年生でした。
学校まで1分の至近地。文部省の役人だった父は日本語振興団として南国セレベス島に出征がきまったため、妹がうまれたばかりの大家族を案じてこの便宜を考えたのでしょう。(セレベス島 父から聞いた音声で地図を探しても見つかりません)
警戒警報のサイレンが日増しに頻繁になって、心配した祖父が今の韓国、普山にいたはずなのに私たちの家を守ってくれることになりました。
とてもとても怖いかみなり髭ジジー。 今思えば命の恩人なのにいやな思い出の一人です。
 防空壕を造らねばと、さっそく庭を掘って10メ-トル四方に溝を掘る その土をこんもりと小山にする、穴はかなり深くて大変でした。
幼い私たちもちいさな砂場遊びのシャベルで土を運んだりお手伝いです。
その時です。突然すさまじい警戒警報のサイレンがなりました。私は怖いジジの命令でひたすら穴を掘りつずけました。なにか叫び声を感じた時かなづちが目の前に飛んできました。私はびっくりして振り向くと未完成の防空壕の入口に仁王立ちのジジがわめいています。
反射的に走りよってすごい剣幕で叱られたことが脳裏にはっきり焼き付いています。
何をするのものんびりやの私、もっとなさけないほどスローな母 よくぞ皆成人したと不思議です。

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